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「生活のことばで科学と社会をつなぐ『ミドルメディア』の必要性」開かれる

 2012年1月20日、筑波大学茗荷谷キャンパスでシンポジウム「生活のことばで科学と社会をつなぐ『ミドルメディア』の必要性―福島県甲状腺検査をめぐるコミュニケーションを題材に」が、ミドルメディア実行委員会と日本サイエンスコミュニケーション協会(JASC)の共催で開かれました。3.11後、現場で苦労している人々に伝える力を持つものは、マスメディアではなく「ミドルメディア」であるという提案に発した会合でした。そこで、地震と津波の被害にあいながら、患者さんたちと困難を乗り越えた遠藤医師や家族を守りながら南相馬に残る決断をされた高村さんのお話をうかがいました。現場の方々が震災後、一刻、一刻をどのように考え行動されたのかを知り、参加者にとっては、自分がその場にいたらどう考えて行動したかを真剣に考えさせられる会合となりました。


遠藤清次さん(南相馬市絆診療所院長)のお話

 (津波の中で自分の病院の患者を避難させ、2012年春から絆診療所を開所)。
3月11日、南相馬市立小高病院長だった私は、午後2時から患者の検査と治療(イレウスチューブ留置)をしていた。その日は順調に2時30分に終了。その後、2時46分、この世の終わりかと思うような大地震があった。3時に海沿いの地区に往診に行く予定があったので、地震があと30分位遅ければ、往診先で津波にのまれていたと思う。津波に備えて、2階の患者約40人を手作業で3階に移動させた。津波は病院の手前100m位の所まで到達した。それからは、泥だらけ、傷だらけで津波から助かった人たちが外来に来た。傷を洗い毛布でくるんで低体温にならないようにした。その間、余震の度に、3階病棟の患者、特に人工呼吸器をつけた3人の安全確認のために駆け上がり、降りては外来診療を続けた。
 12日夕方、福島第1原発1号機爆発。20Km圏内は避難と言われたが、医療を必要とする人と職員とで、その場に居続けた。13日朝早く、23Km地点の南相馬市立総合病院から医師が来て、避難させると言ってくれた。神が来た!と思った。入院患者68人のうち、30数人はマイクロバス2往復で、残りの寝たきり患者は救急車4-5台で往復し、朝7時から夜8時までかかって移送した。14日、3号機の爆発映像を見た南相馬市立総合病院長から、残れる人は残り、避難したい人は避難してもよいと言われた。私も小高病院職員に同じ話をした。看護師が悲鳴をあげて階段をおりていったときの声が忘れられない。それから、残った3分の1の職員で患者の命をどう守るか。屋内退避というが、暖房も食料もなく、酸素のタンクローリーは30Kmまでしか来ない。私も死を覚悟した。それから、自衛隊が食料を持って来たが、30Kmから外に患者を運び出すのは不可能。道路が壊れ、患者を抱えては避難できないし、患者を置いていくことはできない。3月20日までに患者を安全なところに避難させることができ、運良く、亡くなった方はなかった。双葉病院長はどんなに絶望的な思いをされただろうかと思う。彼を悪者にして検証しないメディア、福島県には問題があるのではないかと思う。
 その後、総合病院はスタッフを減らして外来を開始。私は小高病院の職員とともに避難所で巡回診療をしていた。市長に小高病院再開の可能性はゼロと言われ、4月末に同院を退職。5月から猪苗代町立病院に行った。常勤医が3名になり、病院の存続が困難になったときにできた「小高病院を守る会」の人々から、小高区の人々が多く移り住んでいる南相馬市鹿島区で診療をしてほしいと言われた。2012年2月に戻り、5月1日、絆診療所を開所した。仮設住宅に住む高齢者が多く来るよろず相談所のような状況になっている。福島県が行っている甲状腺検診(※)でA2判定になった子供さんと親御さんが来院する。のう胞としこりの違いを説明する。実際、超音波検査を行うと5mm以下ののう胞がほとんど。測り方も見せる。福島医大の甲状腺検査の意義を説明し、プログラムに加わってもらうようにする。次回の検査を待てない人も受け入れている。

※福島県は、子どもたちの健康を生涯にわたって長期に見守り、甲状腺の状況を把握し、本人や保護者が安心できるように、2011年(平成23年)3月11日時点で、0歳から18歳だった全県民(平成4年4月2日〜平成23年4月1日生まれの方)を対象として、甲状腺の検査を行っている。A1判定は「結節(しこり)、のう胞(液体の入った袋のようなもの)が認められなかった。経過観察」、A2判定は「5mm以下の結節、20mm以下ののう胞が認められたが、経過観察」、B判定は「5.1mm以上の結節、21mm以上ののう胞が認められた。後日、二次検査を受けてください」、C判定は「すぐに二次検査を受けてください」というように、A1からCまでの判定結果が届けられる。


高村美春さん(花と希望を育てる会代表、NPO法人実践まちづくり会員)

 (南相馬市で地震、津波で被災し、原子力発電所事故によって生活、地域が壊された。3男の母。三男がA2判定をうけた)。
 「3月11日、高所で津波を見ていた。家は壊れたが、ライフラインは大丈夫だった。携帯がつながるようになると、「早く逃げて!」のメールが次々に届いた。兄妹は県外に逃げた。3月12日、大手メディアは逃げた。私は県道12号線沿いに、こどもと逃げた先は断水していた。原発が爆発したらどうなるのか。自宅が何キロ圏内かもわからなかった。
 3月13日、自宅に帰ると決めた。西に向かう車がいっぱいだった。自宅は25Kmだとわかったが、ライフラインがある自宅に帰った。福島がなぜだめなのかを誰も教えてくれない あせりと不安の中にいた。離婚した夫から埼玉に来るようにいわれ、ガソリンがある限り行くことにした。猪苗代湖について、生命保険、通帳・印鑑を次男に渡し、次男と三男を埼玉に行かせ、私は仕事に戻った。
自宅に戻ると大きな音がして、火力発電所爆発という誤情報も流れた。3号機の爆発は知らずに2時間を過ごした。職場では若い職員は帰っていった。パートの私は自宅待機といわれたが、罪悪感を感じた。コンビニの公衆電話で友人に連絡をとろうと3時間待っていたとき、車やバスが西に向かって行った。助けに来たバスにも乗れない。14日夜、国に捨てられる気持ちがした。
 3月末、ボランティアセンターに入った。30Km圏外ならいられることになり、5月に子どもを向かえに行った。子どもは心が折れて、笑わない子どもになっていた。ボランティアセンターなら知り合いもいるので、南相馬に残ることにしたが、あした、来月、原発はどうなっているのかわからないまま、ガイガーカウンター、線量バッチをつけて暮らした。だれも正しい答えを教えてくれない。同じ立場のおかあさんに話を聴こうと、鎌田實医師とチェルノブイリの母親から話を聴いたりもした。リスクはあるが、リスクを知れば、自分でここにいることを判断できることがわかった。いろいろな先生の、だれのことばを信じるのか。高橋先生が絆診療所を開き、三男はA2の判定についてひとつひとつ説明してもらった。
 福島に住んでいると、私たちの発言などが何かに利用されるのではないかと心配になることがある。健康上問題なしと言われたらほっとするが、放射能や原発を恐れた避難した人は、健康被害の心配はないと医大に断言されては困るのではないか。いずれにしても利用されるのは嫌だと思う。
国やいろいろな組織についていろいろ思っていたが、あのときは本当に誰もわからなかったのだと思う。当事者である私が自分で勉強して、飲み込んで、ここで生きていこうと思う。